人気ブログランキング | 話題のタグを見る

文学は予言する

文学は予言する_a0000692_08355157.jpg

新潮選書のコンパクトな本に、ぎっしり詰め込まれた濃厚な内容に驚き、圧倒され、そして感激する。(読み終えても、繰り返し頁を繰りたくなる衝動にかられ、感激は現在形を保つ)

「ディストピア」「ウーマンフッド」「他者」の3章構成で、現代社会に直結する文学が次々に解説される。

先ず、取り上げられるのは、ジョージ・オーウェル「一九八四年」。
私が「1984」を読んだのは1984年を既に20年ほど経過した頃だったが、「現社会」に通ずる不気味さを感じた。それから更に20年近く経過した今、スノーデンの内部告発など警告は至る所で発せられながらも「1984」が現実となっている。オーウェルが「1984」を執筆したのは1949年。まさに「文学は予言する」だ。

マーガレット・アトウッド「侍女の物語」が「オーウェル「1984」を念頭において書かれたことを知ると、代理懐胎が容認されつつある現実の不気味さが増してくる。

ディストピアがユートピアの拡張概念であることを本書で教わったおかげで、今まで「ディストピア小説」の区分がモヤモヤしていたのが、一気に晴れた。
1994年に小川洋子「密やかな結晶」を大江健三郎氏が緩いファンタジーと評した文芸時評が引用され、大江氏の評が時代的な読み違えのようにも書かれているが、こと大江氏のように現実社会に真正面から向き合った文壇の目からすれば、小川氏の小説の緩さに物足らなさを感じたのではないかと、大江氏を擁護したくなる。

翻訳による後熟という語を用いて、たとえば、小川洋子「密やかな結晶」が「The memory police」に翻訳されることによって多角的な視点の広がりが生まれ、原著もまた、これまでの視点とは異なる視点で読まれるようになると鴻巣氏は語る。あたかもブレンドしたウイスキーの風味を向上させるために瓶詰前に再び貯蔵する後熟のような効果が翻訳によって醸し出されると。流石は優れた翻訳家の観察眼、そして表現だと感心した。

第一章で心底恐ろしいと感じたのは、梵書さながらのアメリカの図書撤去。撤去要請のリストを見ると寒気立つ。事実は小説よりも奇なり。

本書に上げられる本には未読のものも多数あって、読みたい小説が山積みになってくる。
 いとうせいこう「小説禁止令に賛同する」
 小川洋子「密やかな結晶」と「The memory police」
 村田沙耶香「コンビニ人間」  等など。

一方、私も敬愛する多和田葉子氏の作品が取り上げられると、全く気づかずに読んでいた“からくり”を見せられて、鴻巣氏の視点の鋭さに感心させられる。「星に仄めかされて」でヴィタが語る「ララルスフォントリリア」はラース・フォン・トリアー監督のもじり、病院は同監督によるドラマ「キングダム」のパロディだろうと、さらりと解説される。鴻巣氏が網羅する世界の広さを想像するだけで目がくらむ。

読み終えて目次を追い、ピックアップしたページを再読。挙げられた小説や映画のチェック。鴻巣氏の知識の渦の中で心地よく、もがいてる。

本書の刊行に先立って「考える人」に昨年2022年7月21日から連載されていた<文学は予言する>も必読。

備忘録、または図書リストとして<文学は予言する 目次>をのせておく。

はじめに

第一章 ディストピア
1 抑圧された世界――ディストピア小説のいま
ユートピアとディストピアは表裏一体/リバイバルヒットするディストピア小説たち/ディストピア三原則/一、「国民の婚姻・生殖・子育てへの介入」/二、「知と言語(リテラシー)の抑制」/三、「文化・芸術・学術への弾圧」/「SF」から「やさしい日常」へ――ヴェルヌから川上弘美まで/一九一八年のフェミニズム・ディストピア/産む権利、産まない権利――セクシャル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ/「かがやく子ども」のディストピア
2 『侍女の物語』の描く危機は三十五年かけて発見された
当初は「あり得ない世界」だった/だれも信じなかった管理監視社会/アメリカの行方を変える中絶禁止法/被害者が沈黙させられる国家/もはや空想物語ではない
3 大きな読みの転換――『侍女の物語』と『密やかな結晶』
続編『誓願』はなぜ対照的な作風なのか?/一九九四年の大江健三郎評/翻訳による「後熟」が起こった/ファンタジーとディストピアの違い
4 拡張する「人間」の先に――ポストヒューマニズムとAI小説
『わたしを離さないで』が開いた地平/人に似せた創造物――『フランケンシュタイン』から『クララとお日さま』まで/人間の「生」の継続とは?/個人データという「魂」/「いいね」元年のSNSディストピア小説
5 成功物語の限界――メリトクラシー(能力成果主義)という暗黒郷
貴族社会と能力主義社会、どちらを選ぶ?/アメリカン・ドリームの終焉/自由の国アメリカの皮肉/東アジアのメリトクラシー――平野啓一郎、チョ・ナムジュ/「縦の旅行」をする
6 もはやリアリズムとなったディストピア
アメリカの図書館を襲う「撤去要請」/ディストピアに巻き込まれるディストピア小説たち/作家への弾圧――『小説禁止令に賛同する』/「散文」のもつ威力とは? 近代小説の誕生/『ジュリアス・シーザー』が発揮した情報戦争とナラティブ戦略/リアリズムで書かれたディストピア――『日没』

第二章 ウーマンフッド
1 舌を抜かれる女たち
『オデュッセイア』から続く口封じ/「声を聞かれる基本的権利」
2 男性の名声の陰で
ファム・ファタールというからくり/女性を型にはめる「聖と魔」理論――ゼルダ&スコット・フィッツジェラルド/精神的吸血鬼はどちらか?
3 シスターフッドのいま
「少女」はいかに誕生したか/『らんたん』が照らすシェアの精神
4 雄々しい少女たちの冒険
教育目的としての十八世紀「娘文学」/男性作家と女性作家が描く少女の“brave”/女はおろかで賢く、か弱くて強くあれ――『ファウスト』と『風と共に去りぬ』/超常世界と通じあう不思議少女の力/村上春樹が新訳した少女文学の現在形
5 からだとケア労働
ルッキズムと身体への侮り――ウルフから松田青子まで/代理母出産する側、させる側/オースティンの家庭小説は「視野が狭い」?/第二の性が支えてきた「第二の経済」
6 文学における女性たちの声
谷崎、川端、三島の時代は、いまや遠く/ポスト春樹の活躍/世界が注目する「生きづらさ」――『コンビニ人間』『夏物語』/女性の声を世界に届ける翻訳

第三章 他者
1 原作者と翻訳者の無視できないパワーバランス
アマンダ・ゴーマンの奇跡の詩/公共の場が育てた才能/「代弁者の資格」とは?/「黒人・女性」の「英語話者」――翻訳の政治性
2 パンデミックの世界に響く詩の言葉
二〇二〇年のノーベル文学賞/ペスト時代のロンドンでベストセラーになった詩集とは/アメリカで隆盛するアンソロジー/英米「詩小説」の秀作たち
3 リーダーの雄弁術
知性と理性を示すスピーチの力/オバマの演説を支える読書リスト/情動に訴えたトランプの「地下室の言葉」
4 盛りあがる古典の語り直し
「古典」は「古典」として生まれない/世界で盛んな「リトールド」――『イーリアス』も古事記も/審問としての語り直し
5 ますます翻訳される世界――異言語と他者性のいま
国際文学賞候補作の多様性/翻訳の営みを更新した『世界文学とは何か?』/戦争とは誤訳の極端な継続にほかならない――『翻訳地帯』/英語一強主義への抵抗――『生まれつき翻訳』/「オリジナル」がない小説たち/英米圏で翻訳者が隠される「言語的不均衡」/「大文字の文学」をひっくり返す試み/非母語の作家で英語世界は豊かになる
6 多言語の谷間に――多和田葉子
『献灯使』の描く反・反ユートピア/思索の遊歩者――『百年の散歩』/離散者(ディアスポラ)の言語――『地球にちりばめられて』三部作/ズレ、ヌケ、ボケの術/誤訳のポエジー/ネガティヴ・ケイパビリティがひらく境地/峡谷に留まる詩人/完結しない旅――「おくのほそ道」
7 日本語の来た道――奥泉光
近代日本語の歴史をたどりなおす『ビビビ・ビ・バップ』/反省しない日本の総括――『東京自叙伝』/翻訳を通してつくられた文体の頂点『雪の階』/日本語が内包する多言語的高揚感
8 小説、この最も甚だしい錯覚
小説は他の芸術とどう違うのか?/インクの染みが人間に見える「錯覚」/文学とは最も似ていない物真似(ミメーシス)/「みたい」(模倣)をめぐる小説『オン・ザ・プラネット』/作為性の排除は可能か?/アート=擬態は記憶の保管/補完
9 アテンション・エコノミーからの脱却――それは他者と出会うこと
なぜ青年はヘイトにはまったか?/『何もしない』ために/宙づりの時間を楽しむ/抵抗する人びと/文学がもつ遅効性の言葉/自撮りのような「読書」から離れて

おわりに
主要参考文献一覧
索引


# by lazygardener | 2023-04-11 07:24 | | Comments(0)

「なぜではなく、どんなふうに」アリアンナ・ファリネッリ_a0000692_07480927.jpg

原題はイタリア語で"GOTICO AMERICANO"。英語では“American Gothic”。グラント・ウッドの絵のタイトルに由来するものと訳者あとがきで教わった。Grant Wood “American Gothic” (1930) が描かれたのは恐慌の最中。自分達の暮らしをおびやかすものから身を護ろうと険しく不気味な表情でピッチフォークを抱えて一軒家の前に立つ初老の農夫と妻が描かれた絵だ。著者Farinelliの目には、2016年の大統領選挙でトランプに投票した人々と、この絵の夫妻が抱え持つ不安が重なって見えたという。

「なぜではなく、どんなふうに」アリアンナ・ファリネッリ_a0000692_07490386.jpg

一方、日本語タイトルはトニ・モリスン「青い眼がほしい」の一節「なぜではなく、どんなふうに」に由来するとのこと。説明することの難しい「なぜ」の問いかけには「どのように」と語るしか答えようがない。
本書4章の章題と、書き出しにも表れる。
 もし誰かに「なぜ」と問われたら、ブルーナはこう答えていただろう。「なぜかは説明できない。話せるとしたら、どんなふうにかだ」と。

小説は預言者ユーヌスの物語(ヨナ書)で始まる。ピノキオの物語にも登場する鯨の腹に呑み込まれ、やがて救い出される物語。ブルーナが息子マリオに聞かせ、聖書にもあるコーランの話だと説明する。そしてママの生徒にもユヌスって子がいてニネヴェ、今はモスルと呼ばれる町に旅立ったと話す。トランプが勝利した日の深夜の出来事だが、ブルーナにはクリントンの敗北という政治的関心より、自身が夫を裏切ってユヌスの子を宿しているということで頭がいっぱいの状態。

この小説の構成の巧みさに感じ入るのは、最終章で再び鯨が言及されるとき。その時、表紙画がストンと腑に落ちる。

冒頭のマリオへの語り口のように易しい言葉で、ブルーナとトムの恋愛期から結婚生活、離婚に至るまで、トムの両親サルとアマンダの過干渉と価値観の押し付け、ジェンダー、人種、政治、イスラームの世界など、家庭問題から社会問題に至るまで次々と提示しながら小説は展開していく。

問題の提示と共に参考になりそうなテキストやモチーフが多数挙げられているので、小説を楽しみながら様々な問題について深く掘り下げて考えてみることもできる。

エピグラフには「ボールドウィン評論集 次は火だ」からの引用。私がボールドウィンの名を認識したのは、つい最近のこと。ドラマ"This is Us"のランダルとローレンス先生を通じてだった。公民権運動家、作家として活躍したJames Baldwin。エピグラフの引用どおり、黒人差別をする白人を憎むのではなく、むしろ憐れみの心で受け容れてやるのだと主張したという。ユヌスの枕の下には、ブルーナが買い求めたボールドウィン「ジョバンニの部屋」が置かれている。この情景一つでブルーナとユヌスの語り合いのシーンを読者自ら想像を広げてみることができる。このような仕掛を見つけながら小説を読み進むのは、とても愉しい。

著者あとがきでいったいどのような遍歴を経て、どのような動機で、西欧の若者が聖戦への参加を決意するのだろうかという考えを基に、部分的にではあるものの、そんな疑問への答えを見つけるために生まれた作品だとある。ブルーナとユヌスを通じてアメリカの多様性を描き、アフリカンアメリカンのユヌスがISISへ旅立っていく過程を描くことに因って、小説の読者一人ひとりに考えを促す。

本書を手にした読者はまるで、鯨の腹の中で思索を巡らせるよう仕向けられているようにも思える。

邦題訳には感心するが、本文訳には解せない部分も多い。殊にユヌスの語り口に「僕」や「父さん」が多用されていることに苛立つ。20歳の知的な大学生には「父」を使って欲しい。また一般的に小説文体で使われる女性の語末の「わ」が、毅然としたブルーナにも多用されることが気持ち悪かった。

著者アリアンナ・ファリネッリにも大きな影響を与えたと思われるトニ・モリスンの名を私が知ったのは、彼女が亡くなって後のことだった。2019年8月5日に亡くなったトニ・モリスンを悼む西加奈子氏の寄稿文を読んだことがきっかけだった。今再び、この文を読んで改めて彼女の感性の鋭さに感銘を受けている。



# by lazygardener | 2023-03-07 08:01 | | Comments(0)

サンマデモクラシー  復帰前の沖縄でオバーが起こしたビッグウェーブ  (著)山里 孫存_a0000692_08185245.jpg

民主主義を守る。選挙のたびに政治家が繰り返す言葉は白々しく、心に響かない。復帰前の沖縄を統治するアメリカのいう民主主義も嘘っぱち。だけど玉城ウシおばぁの上げた声を支援した弁護士下里恵良らの闘いは正真正銘の「民主主義」を示してくれる。

1960年代初頭、アメリカ統治下の沖縄で高等弁務官は絶対権力者。祖国復帰を願う沖縄の人々が日本の味として食べていた安くて美味しいサンマの流通量が増えてくると突然「布令」で輸入関税をかける。布令は当時の沖縄で有無を言わせない絶対的な法律。しかし、布令の指定魚の項目には「サンマ」がないことを一人の議員が指摘する。そして魚屋のオバーは徴収された税金を返せと、訴訟を起こす。「サンマ裁判」は民主主義の闘いだった。

魚屋の玉城ウシ、弁護士の下里恵良、布令で市長の座を奪われた瀬長亀次郎、高等弁務官の就任式で大胆な祈りをした平良修牧師、その後押しをしたエルダー宣教師等など真の民主主義のために闘った多くの人々。こんなにカッコイイ人々が復帰前の沖縄にいたことが何よりも嬉しい。本土復帰50周年を迎えた2022年の知事選で辺野古容認派と戦う現知事を、見守っているような気がする。

沖縄本島の15%を米軍基地が占める異常を黙止続ける日本政府の異常。それを咎める声が黙殺され続けることの不思議。日本に民主主義はあるのだろうかと訝る。「民(みん)が主(しゅ)」の民主主義を求める国民と「民(たみ)と主(あるじ)」を固定しようとする政府の闘いは今も続くが、政府を「主(あるじ)」として後押しする国民が少なからずいることも事実。

第11章に、1972年に本土復帰した際の政府主催式典で、行政主席から沖縄県知事となった屋良朝苗氏のスピーチが紹介されている。

「沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実であります。そこには、米軍基地の態様の問題をはじめ、内蔵するいろいろな問題があり、これらを持ち込んで復帰したわけであります。したがって、私どもにとって、これからもなおきびしさは続き、新しい困難に直面するかもしれません」

将来を懸念して険しい態度を示した屋良朝苗氏の言葉が、50年後も変わらないことが何よりも悲しい。

本書のエピローグで著者がウシおばぁのトートーメーの前で聴いた、おばぁの声。
おかしいことは「おかしい」って声をあげて言えばいいのさ。当たり前のことさ。はぁ?そんな当たり前のことが、難しい世の中になっているわけ? はっさ、もう大変なっているさ」

おばぁの声を受け止めることこそ、サンマデモクラシー完結だと思う。「思ってるだけではダメさ-」とおばぁの声に叱られながら…。


# by lazygardener | 2022-08-30 08:30 | | Comments(0)

「白鶴亮翅」完読

「白鶴亮翅」の連載が終わった。
8月14日、連載188に<完>の字を目にし、「え、これで終わり?」と名残惜しく思いつつも、新聞連載小説を初めて完読した悦びがフツフツと湧いてきた。

「次の連載は多和田葉子さん」の案内を見た日から心待ちにしていた小説。連載が始まった2月から6カ月半に渡って毎朝の愉しみだった。切り抜いて保存してきたのを、まとめて読み直した。Mの字形のように現在と過去、史実、民族、言語など幅広い世界がジグザグと織り込まれた内容を掬い取るのは太極拳の白鶴亮翅のような一見しなやかに見えて、其の実、腹の底から湧き上がる力強い技であることを感じる。

連載140に、
「自分がどこの国の人間かというようなことは忘れて、ちょうど空を飛ぶ一羽の鶴のように、人間の愚かな争いを空から見て、どうしてあんなに愚かな戦いが起こり得るのか、と心底疑問に思わなければいけません」
と、Mさんの手紙の一節がある。<自分の民族だけひいきしないで、偏りなく静かな心で歴史的証言をすることは可能だと思うか>と手紙で問いかけた主人公への返信だ。

古今東西の戦い全てを視野においた、多和田氏の心の奥底からのメッセージのように思えたのは、終戦記念日に小説を再読したからかもしれない。この一文の重みが私の心にずっしりと錨を下した。

様々な文化的背景を持つ人々との交流の中で、個々の「民族」「歴史」に意識が広がっていくのを私も実感したことがある。国籍や宗教の異なる人と人がストレートに交流する場に時折現れる衝撃的な感覚。小説の主人公が楢山節考の残忍や大日本帝国の罪過に揺さぶられる場面がリアルに感じられた。
一方、ベッカー、ロザリンデ、アリョーナの問題は普遍的に誰もが経験する可能性のあること。魔女狩りのターゲットにされたり、家族関係のトラウマに苛まれたり、恋人に傷つけられたり…。
これら二種の問題を解決するのは、最後にアリョーナが無意識に自己防衛したと思われる「技」以外にないのかもしれない。

「太極拳は音楽であり、武術でもありますが、それだけではありません。楽器がなくても敵がいなくても、この姿勢は頭痛や胃炎に効くし、不安を解消するとも言われています。つまり単に自分の健康のために身体を動かしていると考えてもいいのです」
は、連載181でチェン先生が語る言葉。

「白鶴亮翅」。タイトル名がマジックワードのように心に響く。

小説を再読し終えてからも、多和田ワールドの中で漂っていたくて、日々の挿絵をパラパラ見返しては、ゲスト出演者、石川達三、三島由紀夫、クロード・レヴィ=ストロース、金鳥のニワトリ、杜甫、川端康成、谷崎潤一郎、「魔笛」のパパゲーナとパパゲーノの名を映画のエンディングクレジットを見るように振り返り、空き巣の手口、映画「楢山節考」、グリム童話、シェイクスピア「ハムレット」、推理ドラマ、ドストエフスキー「カラマーゾフ」の大審問官などなど数々のエピソードを思い起こして、とりとめないおしゃべりをした後で感じる満足感に浸っている。と、「おいおい、忘れてへんか?」とパナソニックのCDプレイヤーの声も聞こえてくる。

ミサが翻訳するクライスト「ロカルノの女乞食」は、翻訳過程を見学させてもらうのが楽しかった。私はクライストの名も知らず、作中作かと思っていたら違った。ハインリヒ・フォン・クライスト(Heinrich von Kleist 1777-1811)はドイツのジャーナリスト、戯曲・小説家だとwikipediaで教わった。

良い連載小説に巡り会えたことに心からの感謝!

<8月26日追記>
今朝の朝日新聞に、<「白鶴亮翅」連載を終えて>という多和田葉子氏のコラムが掲載された。

「罪と罰」に出てくる金貸しアリョーナ・イワーノヴナは「老婆」だと書いてあるが、数年前に読み返してみると六十歳前後と知って驚いた。六十歳という若さで老婆として消されてしまうのではたまらない。そこでこのアリョーナさんにわたしの小説に登場してもらい、ロージャ・ラスコーリニコフに殺されないように太極拳を習ってもらった。

アリョーナ・イワーノヴナはドストエフスキー「罪と罰」の老婆の名だった!ラスコーリニコフの名はしっかり覚えていたが、老婆の名はすっかり忘れていた。連載135で、いつもはファーストネームを使うチェン先生がフルネームでアリョーナの注意を喚起するシーンがあるが、読者に「罪と罰」を意識させるための方策だったのだ。そんな大事なヒントを見逃すとは全く迂闊だった。

この多和田氏のコラムを読んだ後で再び切抜を取り出した。そしてアリョーナの登場箇所をパラパラ拾い読みすると、ミサに自己紹介し合う時に「生まれはペータースブルク」と言う。「罪と罰」の舞台ペテルブルグも言及されていることにも気づかされた。

「白鶴亮翅」のロージャに「罪と罰」のラスコーリニコフの面影があることは気づいていたのだが、「罪と罰」のラスコーリニコフのファーストネームの略称もロージャだとは知らなかった。「罪と罰」(米川正夫訳)の母からの長い手紙の書き出し「なつかしいわたしのロージャよ」を見てビックリした。

さらに老婆は六十歳前後と書かれているのも確かめたくて、「罪と罰」で老婆アリョーナ・イヴァーノヴナを探すと、「意地悪そうな鋭い目」「小さいとがった鼻」をした<小柄なかさかさした六十恰好の老婆で頭には何も被っていなかった>と描写されている。「罪と罰」を読んだ20代の時には<六十恰好の老婆>に全く違和感を覚えることがなかったが、今では確かに多和田氏の驚きに共感する。





「白鶴亮翅」完読_a0000692_15545128.jpg

# by lazygardener | 2022-08-16 15:59 | | Comments(0)

山口謠司「てんまる」に、ミステリー級の誤り。_a0000692_15422335.jpg

PHP新書の山口謠司著「てんまる」に、ミステリー級の誤りを見つけた。

第4章 現代文学の「てんまる」の「アレクサンダとぜんまいねずみ」の項、165ページ。まさか!と我が目を疑うような記述がみられる。

小学校2年生の教科書にも採用されている、レオ・レオニ作「アレクサンダとぜんまいねずみ」の谷川俊太郎訳と原文が引用されている。

「月がまんまるの時、」 とかげは いった。
「むらさきの 小石をもって おいで。」

"When the moon is round," said the lizard, "bring me a purple pebble."

その項の最終段落に、衝撃の文章はある。

 それにしても、「『月がまんまるの時、』とかげは いった。」という文章を、「『月がまんまるの時、』と、かげは いった。」となぜ書かなかったのだろうとも思うのです。
 きちんと筋を通って絵本を読み進めて行けば、「かげ」が言った言葉であろうことは、疑いの余地もないのですが、文章だけ切り取ると、「とかげ」が言ったようにも思えてきてしまうのです。

「とかげ」が言ったようにも、ではなく、「とかげ」が言ったのです!と、山口氏に大きな声で言いたい。

谷川氏がこの一文を目にしたら、
 「絵本を開く時、」 タニシュンは いった。
 「子供の心を もっておいで。」
と、茶目っ気たっぷりに山口氏に応えるような気がする。

「それにしても、」と私も山口氏の言葉を繰り返したくなる。
それにしても、PHP新書の編集者の目もくぐり抜けて、この一文が掲載されたことが、本当に不思議で仕方ない。
これぞ、「真夏のミステリー」。としか、言いようがない。

山口氏はWikipediaによるとケンブリッジ大学大学東洋学部兼任研究員の経歴もある中国文献学者。
絵本の「大人の読み方」を披露されたのだろうが、Leo Lionniファンならば、「絵本の愉しみを損ねないで!」と、そしりの声をあげたくなる。


山口謠司「てんまる」に、ミステリー級の誤り。_a0000692_15495913.jpg



# by lazygardener | 2022-08-11 16:00 | | Comments(0)