Lazygardener
2024-03-02T21:53:13+09:00
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「日々の暮らしを楽しむ」を根っこに、庭仕事、室内飾り、料理、読書、語学学習やカリグラフィーなど枝葉を奔放に広げてる。そんな日常の中で見つけたトキメキの色々を綴る。
Excite Blog
ゆっくり休み休みの「源氏物語」
http://lazygarden.exblog.jp/242099119/
2024-02-25T22:07:00+09:00
2024-03-02T21:53:13+09:00
2024-02-25T22:07:36+09:00
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本
林氏の解説を聞くたびに、何だか宝さがしゲームのように「源氏物語」を愉しめそうな気がしてくる。「そうだったのか!」と目から鱗が落ちる思いをしたのは、「光源氏は主役ではなく狂言回しの位置づけ、女性たちの群像を描いた物語」だという解説を聴いた時。そして、源氏は「食えない奴」だと評された時。(恥ずかしながら「食えない」の意味が正確にわからなかったので、調べてみた。「ずる賢い」「油断できない」「一筋縄ではいかない」...確かに!と膝を打つ表現だった。)また、あからさまには書かれないが、男女の関係があったことを明確に伝えるという「朝、男が起きても女は寝床にいる」という状況説明の意味深さを教わった時。
多くの読者に誤解されているであろう葵上や六条御息所の立場を擁護する優しい視点も素敵で、すっかり林望氏の魅力に取りつかれて、「謹訳 源氏物語 私抄」(祥伝社)参考図書として手に入れた。
本書の、ところどころに併記されている原文を胸の内で密かに音読してみるが意味は全くの手探り。ビート板に捕まってバタ足するような感じで、林望氏の解説にしっかり捕まりながら、のんびり読み進んでいる。
私が与謝野晶子訳「源氏物語」(角川文庫)を手にしたのは30年前。その頃、書店に並んでいた谷崎潤一郎、円地文子、田辺聖子などと比べながら選んだ覚えがある。源氏物語といえばプレイボーイの光源氏...というくらいのイメージしか持ち合わせていないことを恥ずかしく思っても、原文を読む力量は無く、現代語訳で読むしかない。だから、できるだけ原文に近いものを読みたく思っていた。久々に本棚から取り出し名倉靖博によるカバー絵を目にすると何だか興ざめするのは購入時から変わらない。そんなわけで、再読するなら林望氏による『謹訳 源氏物語』(祥伝社)にしようと思っているが、いつの日になることやら。
先ずは朗読を聴くことから始めようと、web検索して、西村俊彦氏朗読の与謝野晶子「新訳源氏物語」を見つけ、序から若紫までを聴いた。聞き心地の良い氏の朗読で全編を愉しみたいところだったが、その続きを見つけることができず、末摘花の段以降は沼尾ひろ子氏の朗読を1.25倍速で聴いている。葵の段で源氏と若紫が初めて実質的な夫婦となった翌日の文意もしっかり理解できた...とドヤ顔。だけど実はその後で、かなり恥ずかしい勘違いにも気づかされた。正式な結婚の形式とするために、三日夜餅の調達を惟光に遠回しに源氏が頼んだところ、事情を察した惟光が「今晩の亥の子でない子(ネ)の子餅」と返す科白を朗読で聴いていて、亥の子餅にかけて「寝の子餅」と言ったのかと勘違いして「オヤジギャグか!」と笑ってしまったのだ。後で文字を見て、十二支の"子"のことだったと知って自身の下世話な勘違いに気づかされた。
カルチャーラジオ講座8回目には、浮舟が取り上げられた。源氏亡き後の「源氏物語」。葵上、夕顔、末摘花、六条御息所、玉鬘に続いて浮舟というのが、飛躍しすぎているようにも感じられた。
だが今一度、源氏物語の全体構造をみてみると、まるでDNAのらせん構造のように世代を超えた繰り返しの物語でもあるように思える。
源氏を産んだ桐壺更衣に執着した帝が更衣亡き後も更衣の面影を求めて藤壺を迎えるところから始まった物語。源氏は母への憧憬から藤壺に恋慕し不義の子をもうける。その子は桐壺帝の次男として育てられ長じて兄朱雀帝から譲位されて冷泉帝となる。源氏の執着は幼い若紫にも向けられ、誘拐もどきに自邸に連れて帰り教育し、やがては妻とする。また、夕顔にも執着して夕顔の娘玉鬘を「娘」として屋敷に招きながらも折に付けてセクハラもどきの行いをする。また朱雀帝の娘三の宮は源氏の正妻として迎えられるが、柏木と密通し不義の子、薫を産み源氏は認知する。その薫は長じて宇治の大君を偏愛するが結ばれない。大君亡き後に面影の似た浮舟を求め、匂宮との三角関係となる。二人の貴人に求められた浮舟の結末はぼかしたまま物語は終わる。
まるで、人の世はこのように複雑に人と人の因縁が絡み合って世代を経て繰り返されていくのだ、ということを読者に語り掛ける壮大な物語のようにも見える。この普遍性こそが千年の時空を超えて読み続けられる理由なのかもしれない。
この長い物語を、のんびり、ゆるやかに愉しもうと思う。
2月29日追記
西村俊彦氏に続いて、沼尾ひろ子氏の朗読で物語を聴いてきたが、<17 絵合>以降を見つけることができなかった。そこでシャボン朗読横丁さんにバトンタッチ。シャボンさんの朗読は各段冒頭の与謝野晶子の句も読まれて、テキストに忠実。
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「アンの娘リラ」
http://lazygarden.exblog.jp/242067137/
2024-01-29T21:02:00+09:00
2024-02-09T16:35:25+09:00
2024-01-29T21:02:07+09:00
lazygardener
本
昨年末に出版されたばかりの松本侑子訳「アンの娘リラ」を読み終えた。
原作Rilla of Inglesideは第一次世界大戦(1914–1918)直後の1921年に出版されたアン・シリーズの最終巻。
以前に村岡花子訳「アンの娘リラ」(今も本棚には並んでいる)を手にしたのは日本がバブル絶頂期の1989年。私は平和ボケともいうべき病に侵されていたようで、「アンの娘リラ」の戦況の記述が多すぎることに辟易としてパラパラと飛ばし読みするに留めていた。が、今、連日ガザやウクライナ等の人々に思いを寄せる中で手にした本書は、100年の歳月を飛び越えて、隣人の物語として読み進むことができた。
松本侑子の訳者あとがきに、ウォルターの詩のモデルとなったカナダの詩人John McCrae の詩"In Flanders Fields"が紹介されている。
In Flanders fields the poppies blow
Between the crosses, row on row,
That mark our place; and in the sky
The larks, still bravely singing, fly
Scarce heard amid the guns below.
We are the Dead. Short days ago
We lived, felt dawn, saw sunset glow,
Loved and were loved, and now we lie,
In Flanders fields.
Take up our quarrel with the foe:
To you from failing hands we throw
The torch; be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die
We shall not sleep, though poppies grow
In Flanders fields.
そして、この詩中のfaith「信念」とは「邪悪と戦って平和な世界を作り上げるという普遍的な理想への信念でしょう」と解説されている。でも、「邪悪」を戦争の口実とすることに慎重にならなければ永遠に平和な世は訪れないだろうとも思って複雑な心境となる。無力なパレスチナの人々を追い詰めるイスラエルの大義名分が許されるとは到底思えないし.... だがまた、英国のPoppy Day (Remembrance Day) に配られる造花の赤い花、そして表紙絵の由来は、この詩であったのかと哀悼のメロディーと共にしみじみと心に響く思いも...
閑話休題、「アンの娘リラ」の世界に戻る。
以前のいい加減な読み方を自覚したのは第2章。リラの愛称「リラ・マイ・リラ」の由来が明かされる箇所に衝撃を受けた。リラの本名がマリラだということさえ知らずにいたなんて...。改めて村岡花子訳も併せ開くと、訳者あとがきの冒頭にも、マリラへの感謝を込めてアンが娘に授けた名であることが記されていた。
リラは炉辺荘で生まれ、 Bertha Marilla Blytheと名付けられた。(「炉辺荘のアン」)そして炉辺荘や虹の谷で幸せな子ども時代を過ごしてきた。だが第一次世界大戦の勃発によって兄や恋人、友人達の出征を次々と見送り、深い苦悩に満ちた青春時代を過ごすことを余儀なくされる。アンの青春時代とは全く異なる時代背景の中で、リラがどんどん素敵に成長していく様に惹きつけられる。
今一度、村岡花子版訳者あとがきに注目すると、「戦争中の他国の人々の心理状態を知る特別のおもしろさ」「外国人がどういう感じ方で戦争の中を生き抜いているか」など戦時中の外国人の内面に触れることの興味深さに言及している。現在では第一次世界大戦を遠い過去の戦争と位置付けてしまうが、モンゴメリやアンと年の開きはあるにせよ、同時代を生きた、そして続く第二次世界大戦ではモンゴメリやアンの国とは敵対する国の人であった村岡花子にとって、まさしく複雑な意味合いを持つ作品であったろうと思われる。
また、 アンシリーズの捉え方については、村岡花子の判断で新潮文庫を10巻構成にしたことを知った。村岡訳が出版された1959年当時のカナダ、アメリカ、イギリスなどでは"Rainbow Valley" (1919)と"Rilla of Ingleside "(1921)は別枠で扱われており以下の8冊をアンブックスあるいはアヴォンリーブックスと呼んでいたとのこと。
Anne of Green Gables (1908)
Anne of Avonlea (1909)
Chronicles of Avonlea (1912)
Anne of the Island (1915)
Anne's House of Dreams (1917)
Further Chronicles of Avonlea (1920)
Anne of Windy Poplars (1936)
Anne of Ingleside (1939)
気になって、現在、出版されているボックスセットの内容を見てみると、"Chronicles of Avonlea"," Further Chronicles of Avonlea"の2冊は除かれて"Rainbow Valley "、"Rilla of Ingleside "を加えた8冊(松本新訳8冊に同じ)をAnneシリーズとみなすのが主流になっているようだ。
Anne of Green Gables
Anne of the Island
Anne of Avonlea
Anne of Windy Poplar
Anne's House of Dreams
Anne of Ingleside
Rainbow Valley
Rilla of Ingleside
2009年にモンゴメリ晩年の作品"The Blythes Are Quoted"がAnneの11冊目の本として出版されたが、これもChronicles of Avonlea 、Further Chronicles of Avonleaと同じくアンの関連本の位置づけとされている。
長く置き去りにしていた村岡花子訳「アンの娘リラ」を再び開くチャンスまで与えてくれた松本新訳に心から感謝している。文春文庫「赤毛のアン」シリーズを手にするきっかけとなったのは時を隔てた2つのTV番組。松本侑子が講師だった2008年(...およそ15年も前!)のNHK「3か月トピック英会話『赤毛のアン』への旅」と「アンという名の少女」"Anne with an E" 。ドラマを見終えるとアンを再読したくなって解説の充実している松本侑子新訳に注目した。
松本氏の懇切丁寧な解説のおかげで、エピグラフや作中に散りばめられた数々の引用文にまで注意深く目を留める愉しさを教わって、とことん愉しみながら、時間をかけての再読となった。
各作品のエピグラフ等、調べた原文を、ここに書き留めておこうと思う。
1「赤毛のアン」Anne of Green Gables
The good stars met in your horoscope,
Made you of spirit, fire and dew---
Robert Browning "Evelyn Hope"
最終部でアンがつぶやく言葉もRobert Browning "Pippa Passes"の一節
God's in his heaven—
All's right with the world!
「アンの青春」のエピグラフに橋渡しされているという最終節(上記God's in his heaven—の直前 キーワードはflowers)
Anne's horizons had closed in since the night she had sat there after coming home from Queen's; but if the path set before her feet was to be narrow she knew that flowers of quiet happiness would bloom along it.
2「アンの青春」 Anne of Avonlea
Flowers spring to blossom where she walks
The careful ways of duty;
Our hard, stiff lines of life with her
Are flowing curves of beauty.
John Greenleaf Whittier "Among the Hills"
「アンの愛情」のエピグラフに橋渡しされているという最終節(キーワードはveil)
It was as if a veil that had hung before her inner consciousness had been lifted, giving to her view a revelation of unsuspected feelings and realities. Perhaps, after all, romance did not come into one's life with pomp and blare, like a gay knight riding down; perhaps it crept to one's side like an old friend through quiet ways; perhaps it revealed itself in seeming prose, until some sudden shaft of illumination flung athwart its pages betrayed the rhythm and the music, perhaps. . . perhaps. . .love unfolded naturally out of a beautiful friendship, as a golden-hearted rose slipping from its green sheath.
Then the veil dropped again;
3「アンの愛情」Anne of the Island
All precious things discovered late, To those that seek them issue forth, For Love in sequel works with Fate, And draws the veil from hidden worth.
Alfred Tennyson"The Arrival"
最終節は「赤毛のアン」、「アンの青春」に現れたWhittierの”flowers”が再び登場する。
Then they walked home together in the dusk, crowned king and queen in the bridal realm of love, along winding paths fringed with the sweetest flowers that ever bloomed, and over haunted meadows where winds of hope and memory blew.
4「風柳荘のアン」Anne of Windy Willows
エピグラフが無い
5「アンの夢の家」
Our kin
Have built them temples, and therein
Pray to the gods we know; and dwell
In little houses lovable.
Rupert Brooke "The Song of the Pilgrims".
6「炉辺荘のアン」
エピグラフが無い
7「虹の谷のアン」
"The thoughts of youth are long, long thoughts."
Henry Wadsworth Longfellow "My Lost Youth"
"My Lost Youth" の詩で、幼かった日や青春の日々を回想しながら10回も繰り返される"A boy's will is the wind's will, And the thoughts of youth are long, long thoughts."。の一節。虹の谷で遊んだブライス家とメレディス家の子どもたちやメアリなどの少年少女時代の終わりを暗示する。"long, long thoughts."は「アンの青春」の最終章でラベンダー夫人の結婚式の片付を終えて疲れてはいても物思いに耽るアンに同じ引用句が用いられて(feeling very tired but still unweariedly thinking "long, long thoughts.")、アンの少女時代の終わりを匂わせているという。
8「アンの娘リラ」
Now they remain to us forever young
Who with such splendor gave their youth away;
Virna Sheard "The Young Knights"
第一次世界大戦で命を落とした兵士達を称える詩。
松本侑子氏による新訳のアンシリーズを完読し、8冊の訳者あとがきに再び目を通した。デジタル検索の難しかった時代から引用文献を探す緻密な作業を続けてこられた松本侑子氏の偉業に改めて感嘆すると共に、奥深いアンの世界の隅々までご案内頂いたことに感謝の気持ちでいっぱいになる。
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心静かにクリスマス
http://lazygarden.exblog.jp/242019653/
2023-12-20T11:06:00+09:00
2023-12-20T12:15:46+09:00
2023-12-20T11:06:14+09:00
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暦
例年通り庭木の剪定枝でツリーを立て、リースやキャンドル飾りはしたが、華やかな装飾は無し。
ツリーは剪定枝そのまま。
コチョウランとアジサイのドライフラワーを散りばめたリースの傍らに10月から習い始めたばかりのフラクチャー体で書いたアドヴェントカレンダーを並べ、キャンドル飾りには白いガーデンシクラメンと剪定枝を添えてこちらもフラクチャー体でhope,peace,joy, loveの字を添えた。
リンツのお店でアドヴェントカレンダーボックスを見た夫が、カリグラフィーアドヴェントカレンダーと一緒に飾ったらと提案してくれたので、チョコレートを数種類買って廃品利用(市田柿の入っていた桐箱)でにわか仕込みのアドヴェントカレンダーを作った。「25日はこれにして」とリクエストされた金貨チョコ。貧しい少女を救った聖ニコラウスの伝説を思いながらクリスマスに頂くことにする。
昨年のイブのホームパーティーで、義母にせがんで読んでもらった「こぎつねのとくべつなクリスマス」。この絵本を開くと、お話を読みながら「かわいいね~」と言った母の声が聴こえて、心愉しい時間が蘇って心が温かくなる。
こんな少し寂しいクリスマスシーズンに出会った「ポーラー・エクスプレス」。
あまり好みの絵じゃないから、と今まで手にすることのなかった絵本"The Polar Express"に導いてくれたのは映画だった。ロバート・ゼメキス脚本監督のCGアニメ。パフォーマンス・キャプチャーで俳優の表情と動作を記録してCGに反映させる技法で制作されたという。トム・ハンクスは車掌、主人公の少年、そして特別出演のスクルージなど5役を演じたそうだ。
素晴らしいクリスマス絵本を世界中の人々に届けてくれたChris Van Allsburg "The Polar Express"(1985)への感謝の想いをこめて、カリグラフィーエンボスでカードを作ることを試みた。フラクチャー書体のJingle Bellsにサンタのそりに付いたシルバーベル。"the bell still rings for all who truly believe"の言葉を添えて。
クリスマス
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中秋の名月に導かれて「十六夜日記」
http://lazygarden.exblog.jp/241961661/
2023-10-16T22:57:00+09:00
2023-11-06T10:56:43+09:00
2023-10-26T23:21:28+09:00
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本
先月29日の「中秋の名月」の月の出を調べていた時に、ふと、十六夜の月の出は「いざよふ」と感じるほどに遅いのだろうかと気になって調べたのが、きっかけ。検索リストの中に、古典講読「十六夜日記」の表題と共に加賀美さんの名を見つけ、「いざよふ」ことなく「いざない」を受け、聞き逃し配信で聴講を始めた。
『十六夜日記』は、藤原為家の側室、阿仏尼によって記された紀行文日記。為家は播磨国細川荘を当初は長男為氏に譲るとしていたが、後に悔い返して阿仏尼との間の子、為相へ譲ると遺言した。だが為氏が遺言を認めず細川荘を譲らない(公家法では悔い返しは認められない)ので、阿仏尼は(悔い返しが認められる武家法による判決を得るため)鎌倉へ向かう決心をする。為家の父は定家、祖父は俊成でいずれも勅撰和歌集の選者としても活躍した歌人。為家の遺志である和歌の道を護るという大義名分を掲げて相続争いに臨む阿仏尼。歌だけでは生活ができないので生活の糧を生み出す荘園の確保は和歌の道を護るために必要なのだと記す。『十六夜日記』は鎌倉へ下る際の紀行日記として、また和歌の教科書として記された書だという。
1279年(弘安2)当時、阿仏尼は推定55才。鎌倉時代の京から鎌倉への旅は相当に厳しいものだっただろう。粟田口で牛車を返した後、早朝から日が暮れるまで馬や徒歩で移動を続ける様を想像するだけで息が切れそうになる。京から近江、美濃、尾張の国から遠江へと向かい行くところを聞き終えたところで、阿仏尼のパワーあふれる知・情・意に圧倒され、まさしくpower womanだと感嘆してる。
旅立ちの日が10月16日であったことから、「十六夜日記」と後人に付けられたということだが、阿仏尼の辞書には「いざよふ」という言葉は無かっただろうと思う。だが、阿仏尼の晩年の命を賭すほどの行動と書物が、時代を超えて人口に膾炙するのは、欠けては満ちる月の力かもしれない。
740年ばかり前の十六夜を思いながら夜空を眺めたが、月の姿は無し。ふと、先月30日の十六夜の月は、阿仏尼が渡津(わとうど)で見たような、笠をかぶったお月様だったと思い出した。前日、中秋の名月に煌々とした月を眺められたことに感謝したことで、翌日の月姿も印象に残っている。
供なる人、「有明の月さへ笠着たり」と言ふを聞きて、
「旅人の同じ道にや出でつらむ 笠打ち着たる有明の月」
同行の息子、阿闍梨が、霞がかった月を見て「人と同じように笠を着ている」と言っているのを聞いて、阿仏尼が詠んだ歌。旅人の私が通っている道と同じ道筋を月も通っているのだろうか。いかにも旅支度のように笠を被っている有明のお月様を見ると、そう思われてならない。歌の解説を聞いて、私が今まで抱いていた月の「暈」のイメージが、傘から笠へと変わった。
阿仏尼が、この歌を詠んだのは22日(はつかあまりふつか)のこと。下弦の月が人の横顔のような趣だったのかも、と想像している。
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たなばたさま
http://lazygarden.exblog.jp/241857126/
2023-07-07T18:02:00+09:00
2023-07-07T18:02:00+09:00
2023-07-07T18:02:00+09:00
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カリグラフィー
笹の葉の形に文字を置いて…と、妄想段階では立派な作品が出来上がっていたのだけど、いざ書こうと思うとイメージから遠ざかっていく。七夕の当日、数枚を書き並べて嫌気がさしてきたところで、「ま、いいか!」と終止符を打った。
そして束の間、多肉植物とドライフラワーの飾りと共に七夕を祝おうと、額に入れた。
窓辺には、ワイルドオーツを笹の葉に見立てた七夕飾り。我が家の七夕大使のようにワイルドオーツが毎年、活躍してくれる。
強い日差しだったのが、午後には雲に覆われてきて、夕方には、ぽつぽつと降り始めた。
赤人の「この夕べ降りつる雨は彦星のとわたる舟の櫂の雫か」の哥を思い起こすと、七夕の雨に風情さえ感じる。
みんなの七夕の願いごとが叶いますように!
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文学は予言する
http://lazygarden.exblog.jp/241775307/
2023-04-11T07:24:00+09:00
2023-04-11T08:38:40+09:00
2023-04-11T08:37:10+09:00
lazygardener
本
新潮選書のコンパクトな本に、ぎっしり詰め込まれた濃厚な内容に驚き、圧倒され、そして感激する。(読み終えても、繰り返し頁を繰りたくなる衝動にかられ、感激は現在形を保つ)
「ディストピア」「ウーマンフッド」「他者」の3章構成で、現代社会に直結する文学が次々に解説される。
先ず、取り上げられるのは、ジョージ・オーウェル「一九八四年」。
私が「1984」を読んだのは1984年を既に20年ほど経過した頃だったが、「現社会」に通ずる不気味さを感じた。それから更に20年近く経過した今、スノーデンの内部告発など警告は至る所で発せられながらも「1984」が現実となっている。オーウェルが「1984」を執筆したのは1949年。まさに「文学は予言する」だ。
マーガレット・アトウッド「侍女の物語」が「オーウェル「1984」を念頭において書かれたことを知ると、代理懐胎が容認されつつある現実の不気味さが増してくる。
ディストピアがユートピアの拡張概念であることを本書で教わったおかげで、今まで「ディストピア小説」の区分がモヤモヤしていたのが、一気に晴れた。
1994年に小川洋子「密やかな結晶」を大江健三郎氏が緩いファンタジーと評した文芸時評が引用され、大江氏の評が時代的な読み違えのようにも書かれているが、こと大江氏のように現実社会に真正面から向き合った文壇の目からすれば、小川氏の小説の緩さに物足らなさを感じたのではないかと、大江氏を擁護したくなる。
翻訳による後熟という語を用いて、たとえば、小川洋子「密やかな結晶」が「The memory police」に翻訳されることによって多角的な視点の広がりが生まれ、原著もまた、これまでの視点とは異なる視点で読まれるようになると鴻巣氏は語る。あたかもブレンドしたウイスキーの風味を向上させるために瓶詰前に再び貯蔵する後熟のような効果が翻訳によって醸し出されると。流石は優れた翻訳家の観察眼、そして表現だと感心した。
第一章で心底恐ろしいと感じたのは、梵書さながらのアメリカの図書撤去。撤去要請のリストを見ると寒気立つ。事実は小説よりも奇なり。
本書に上げられる本には未読のものも多数あって、読みたい小説が山積みになってくる。
いとうせいこう「小説禁止令に賛同する」
小川洋子「密やかな結晶」と「The memory police」
村田沙耶香「コンビニ人間」 等など。
一方、私も敬愛する多和田葉子氏の作品が取り上げられると、全く気づかずに読んでいた“からくり”を見せられて、鴻巣氏の視点の鋭さに感心させられる。「星に仄めかされて」でヴィタが語る「ララルスフォントリリア」はラース・フォン・トリアー監督のもじり、病院は同監督によるドラマ「キングダム」のパロディだろうと、さらりと解説される。鴻巣氏が網羅する世界の広さを想像するだけで目がくらむ。
読み終えて目次を追い、ピックアップしたページを再読。挙げられた小説や映画のチェック。鴻巣氏の知識の渦の中で心地よく、もがいてる。
本書の刊行に先立って「考える人」に昨年2022年7月21日から連載されていた<文学は予言する>も必読。
備忘録、または図書リストとして<文学は予言する 目次>をのせておく。
はじめに
第一章 ディストピア
1 抑圧された世界――ディストピア小説のいま
ユートピアとディストピアは表裏一体/リバイバルヒットするディストピア小説たち/ディストピア三原則/一、「国民の婚姻・生殖・子育てへの介入」/二、「知と言語(リテラシー)の抑制」/三、「文化・芸術・学術への弾圧」/「SF」から「やさしい日常」へ――ヴェルヌから川上弘美まで/一九一八年のフェミニズム・ディストピア/産む権利、産まない権利――セクシャル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ/「かがやく子ども」のディストピア
2 『侍女の物語』の描く危機は三十五年かけて発見された
当初は「あり得ない世界」だった/だれも信じなかった管理監視社会/アメリカの行方を変える中絶禁止法/被害者が沈黙させられる国家/もはや空想物語ではない
3 大きな読みの転換――『侍女の物語』と『密やかな結晶』
続編『誓願』はなぜ対照的な作風なのか?/一九九四年の大江健三郎評/翻訳による「後熟」が起こった/ファンタジーとディストピアの違い
4 拡張する「人間」の先に――ポストヒューマニズムとAI小説
『わたしを離さないで』が開いた地平/人に似せた創造物――『フランケンシュタイン』から『クララとお日さま』まで/人間の「生」の継続とは?/個人データという「魂」/「いいね」元年のSNSディストピア小説
5 成功物語の限界――メリトクラシー(能力成果主義)という暗黒郷
貴族社会と能力主義社会、どちらを選ぶ?/アメリカン・ドリームの終焉/自由の国アメリカの皮肉/東アジアのメリトクラシー――平野啓一郎、チョ・ナムジュ/「縦の旅行」をする
6 もはやリアリズムとなったディストピア
アメリカの図書館を襲う「撤去要請」/ディストピアに巻き込まれるディストピア小説たち/作家への弾圧――『小説禁止令に賛同する』/「散文」のもつ威力とは? 近代小説の誕生/『ジュリアス・シーザー』が発揮した情報戦争とナラティブ戦略/リアリズムで書かれたディストピア――『日没』
第二章 ウーマンフッド
1 舌を抜かれる女たち
『オデュッセイア』から続く口封じ/「声を聞かれる基本的権利」
2 男性の名声の陰で
ファム・ファタールというからくり/女性を型にはめる「聖と魔」理論――ゼルダ&スコット・フィッツジェラルド/精神的吸血鬼はどちらか?
3 シスターフッドのいま
「少女」はいかに誕生したか/『らんたん』が照らすシェアの精神
4 雄々しい少女たちの冒険
教育目的としての十八世紀「娘文学」/男性作家と女性作家が描く少女の“brave”/女はおろかで賢く、か弱くて強くあれ――『ファウスト』と『風と共に去りぬ』/超常世界と通じあう不思議少女の力/村上春樹が新訳した少女文学の現在形
5 からだとケア労働
ルッキズムと身体への侮り――ウルフから松田青子まで/代理母出産する側、させる側/オースティンの家庭小説は「視野が狭い」?/第二の性が支えてきた「第二の経済」
6 文学における女性たちの声
谷崎、川端、三島の時代は、いまや遠く/ポスト春樹の活躍/世界が注目する「生きづらさ」――『コンビニ人間』『夏物語』/女性の声を世界に届ける翻訳
第三章 他者
1 原作者と翻訳者の無視できないパワーバランス
アマンダ・ゴーマンの奇跡の詩/公共の場が育てた才能/「代弁者の資格」とは?/「黒人・女性」の「英語話者」――翻訳の政治性
2 パンデミックの世界に響く詩の言葉
二〇二〇年のノーベル文学賞/ペスト時代のロンドンでベストセラーになった詩集とは/アメリカで隆盛するアンソロジー/英米「詩小説」の秀作たち
3 リーダーの雄弁術
知性と理性を示すスピーチの力/オバマの演説を支える読書リスト/情動に訴えたトランプの「地下室の言葉」
4 盛りあがる古典の語り直し
「古典」は「古典」として生まれない/世界で盛んな「リトールド」――『イーリアス』も古事記も/審問としての語り直し
5 ますます翻訳される世界――異言語と他者性のいま
国際文学賞候補作の多様性/翻訳の営みを更新した『世界文学とは何か?』/戦争とは誤訳の極端な継続にほかならない――『翻訳地帯』/英語一強主義への抵抗――『生まれつき翻訳』/「オリジナル」がない小説たち/英米圏で翻訳者が隠される「言語的不均衡」/「大文字の文学」をひっくり返す試み/非母語の作家で英語世界は豊かになる
6 多言語の谷間に――多和田葉子
『献灯使』の描く反・反ユートピア/思索の遊歩者――『百年の散歩』/離散者(ディアスポラ)の言語――『地球にちりばめられて』三部作/ズレ、ヌケ、ボケの術/誤訳のポエジー/ネガティヴ・ケイパビリティがひらく境地/峡谷に留まる詩人/完結しない旅――「おくのほそ道」
7 日本語の来た道――奥泉光
近代日本語の歴史をたどりなおす『ビビビ・ビ・バップ』/反省しない日本の総括――『東京自叙伝』/翻訳を通してつくられた文体の頂点『雪の階』/日本語が内包する多言語的高揚感
8 小説、この最も甚だしい錯覚
小説は他の芸術とどう違うのか?/インクの染みが人間に見える「錯覚」/文学とは最も似ていない物真似(ミメーシス)/「みたい」(模倣)をめぐる小説『オン・ザ・プラネット』/作為性の排除は可能か?/アート=擬態は記憶の保管/補完
9 アテンション・エコノミーからの脱却――それは他者と出会うこと
なぜ青年はヘイトにはまったか?/『何もしない』ために/宙づりの時間を楽しむ/抵抗する人びと/文学がもつ遅効性の言葉/自撮りのような「読書」から離れて
おわりに
主要参考文献一覧
索引
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「なぜではなく、どんなふうに」アリアンナ・ファリネッリ
http://lazygarden.exblog.jp/241745659/
2023-03-07T08:01:00+09:00
2023-04-28T18:02:46+09:00
2023-03-07T08:01:35+09:00
lazygardener
本
原題はイタリア語で"GOTICO AMERICANO"。英語では“American Gothic”。グラント・ウッドの絵のタイトルに由来するものと訳者あとがきで教わった。Grant Wood “American Gothic” (1930) が描かれたのは恐慌の最中。自分達の暮らしをおびやかすものから身を護ろうと険しく不気味な表情でピッチフォークを抱えて一軒家の前に立つ初老の農夫と妻が描かれた絵だ。著者Farinelliの目には、2016年の大統領選挙でトランプに投票した人々と、この絵の夫妻が抱え持つ不安が重なって見えたという。
一方、日本語タイトルはトニ・モリスン「青い眼がほしい」の一節「なぜではなく、どんなふうに」に由来するとのこと。説明することの難しい「なぜ」の問いかけには「どのように」と語るしか答えようがない。
本書4章の章題と、書き出しにも表れる。
もし誰かに「なぜ」と問われたら、ブルーナはこう答えていただろう。「なぜかは説明できない。話せるとしたら、どんなふうにかだ」と。
小説は預言者ユーヌスの物語(ヨナ書)で始まる。ピノキオの物語にも登場する鯨の腹に呑み込まれ、やがて救い出される物語。ブルーナが息子マリオに聞かせ、聖書にもあるコーランの話だと説明する。そしてママの生徒にもユヌスって子がいてニネヴェ、今はモスルと呼ばれる町に旅立ったと話す。トランプが勝利した日の深夜の出来事だが、ブルーナにはクリントンの敗北という政治的関心より、自身が夫を裏切ってユヌスの子を宿しているということで頭がいっぱいの状態。
この小説の構成の巧みさに感じ入るのは、最終章で再び鯨が言及されるとき。その時、表紙画がストンと腑に落ちる。
冒頭のマリオへの語り口のように易しい言葉で、ブルーナとトムの恋愛期から結婚生活、離婚に至るまで、トムの両親サルとアマンダの過干渉と価値観の押し付け、ジェンダー、人種、政治、イスラームの世界など、家庭問題から社会問題に至るまで次々と提示しながら小説は展開していく。
問題の提示と共に参考になりそうなテキストやモチーフが多数挙げられているので、小説を楽しみながら様々な問題について深く掘り下げて考えてみることもできる。
エピグラフには「ボールドウィン評論集 次は火だ」からの引用。私がボールドウィンの名を認識したのは、つい最近のこと。ドラマ"This is Us"のランダルとローレンス先生を通じてだった。公民権運動家、作家として活躍したJames Baldwin。エピグラフの引用どおり、黒人差別をする白人を憎むのではなく、むしろ憐れみの心で受け容れてやるのだと主張したという。ユヌスの枕の下には、ブルーナが買い求めたボールドウィン「ジョバンニの部屋」が置かれている。この情景一つでブルーナとユヌスの語り合いのシーンを読者自ら想像を広げてみることができる。このような仕掛を見つけながら小説を読み進むのは、とても愉しい。
著者あとがきでいったいどのような遍歴を経て、どのような動機で、西欧の若者が聖戦への参加を決意するのだろうかという考えを基に、部分的にではあるものの、そんな疑問への答えを見つけるために生まれた作品だとある。ブルーナとユヌスを通じてアメリカの多様性を描き、アフリカンアメリカンのユヌスがISISへ旅立っていく過程を描くことに因って、小説の読者一人ひとりに考えを促す。
本書を手にした読者はまるで、鯨の腹の中で思索を巡らせるよう仕向けられているようにも思える。
邦題訳には感心するが、本文訳には解せない部分も多い。殊にユヌスの語り口に「僕」や「父さん」が多用されていることに苛立つ。20歳の知的な大学生には「父」を使って欲しい。また一般的に小説文体で使われる女性の語末の「わ」が、毅然としたブルーナにも多用されることが気持ち悪かった。
著者アリアンナ・ファリネッリにも大きな影響を与えたと思われるトニ・モリスンの名を私が知ったのは、彼女が亡くなって後のことだった。2019年8月5日に亡くなったトニ・モリスンを悼む西加奈子氏の寄稿文を読んだことがきっかけだった。今再び、この文を読んで改めて彼女の感性の鋭さに感銘を受けている。
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サンマデモクラシー 復帰前の沖縄でオバーが起こしたビッグウェーブ (著)山里 孫存
http://lazygarden.exblog.jp/241568012/
2022-08-30T08:30:00+09:00
2022-09-06T09:50:37+09:00
2022-08-30T08:30:22+09:00
lazygardener
本
民主主義を守る。選挙のたびに政治家が繰り返す言葉は白々しく、心に響かない。復帰前の沖縄を統治するアメリカのいう民主主義も嘘っぱち。だけど玉城ウシおばぁの上げた声を支援した弁護士下里恵良らの闘いは正真正銘の「民主主義」を示してくれる。
1960年代初頭、アメリカ統治下の沖縄で高等弁務官は絶対権力者。祖国復帰を願う沖縄の人々が日本の味として食べていた安くて美味しいサンマの流通量が増えてくると突然「布令」で輸入関税をかける。布令は当時の沖縄で有無を言わせない絶対的な法律。しかし、布令の指定魚の項目には「サンマ」がないことを一人の議員が指摘する。そして魚屋のオバーは徴収された税金を返せと、訴訟を起こす。「サンマ裁判」は民主主義の闘いだった。
魚屋の玉城ウシ、弁護士の下里恵良、布令で市長の座を奪われた瀬長亀次郎、高等弁務官の就任式で大胆な祈りをした平良修牧師、その後押しをしたエルダー宣教師等など真の民主主義のために闘った多くの人々。こんなにカッコイイ人々が復帰前の沖縄にいたことが何よりも嬉しい。本土復帰50周年を迎えた2022年の知事選で辺野古容認派と戦う現知事を、見守っているような気がする。
沖縄本島の15%を米軍基地が占める異常を黙止続ける日本政府の異常。それを咎める声が黙殺され続けることの不思議。日本に民主主義はあるのだろうかと訝る。「民(みん)が主(しゅ)」の民主主義を求める国民と「民(たみ)と主(あるじ)」を固定しようとする政府の闘いは今も続くが、政府を「主(あるじ)」として後押しする国民が少なからずいることも事実。
第11章に、1972年に本土復帰した際の政府主催式典で、行政主席から沖縄県知事となった屋良朝苗氏のスピーチが紹介されている。
「沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実であります。そこには、米軍基地の態様の問題をはじめ、内蔵するいろいろな問題があり、これらを持ち込んで復帰したわけであります。したがって、私どもにとって、これからもなおきびしさは続き、新しい困難に直面するかもしれません」
将来を懸念して険しい態度を示した屋良朝苗氏の言葉が、50年後も変わらないことが何よりも悲しい。
本書のエピローグで著者がウシおばぁのトートーメーの前で聴いた、おばぁの声。
「おかしいことは「おかしい」って声をあげて言えばいいのさ。当たり前のことさ。はぁ?そんな当たり前のことが、難しい世の中になっているわけ? はっさ、もう大変なっているさ」
おばぁの声を受け止めることこそ、サンマデモクラシー完結だと思う。「思ってるだけではダメさ-」とおばぁの声に叱られながら…。
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「白鶴亮翅」完読
http://lazygarden.exblog.jp/241556629/
2022-08-16T15:59:00+09:00
2022-08-30T08:15:59+09:00
2022-08-16T15:59:38+09:00
lazygardener
本
8月14日、連載188に<完>の字を目にし、「え、これで終わり?」と名残惜しく思いつつも、新聞連載小説を初めて完読した悦びがフツフツと湧いてきた。
「次の連載は多和田葉子さん」の案内を見た日から心待ちにしていた小説。連載が始まった2月から6カ月半に渡って毎朝の愉しみだった。切り抜いて保存してきたのを、まとめて読み直した。Mの字形のように現在と過去、史実、民族、言語など幅広い世界がジグザグと織り込まれた内容を掬い取るのは太極拳の白鶴亮翅のような一見しなやかに見えて、其の実、腹の底から湧き上がる力強い技であることを感じる。
連載140に、
「自分がどこの国の人間かというようなことは忘れて、ちょうど空を飛ぶ一羽の鶴のように、人間の愚かな争いを空から見て、どうしてあんなに愚かな戦いが起こり得るのか、と心底疑問に思わなければいけません」
と、Mさんの手紙の一節がある。<自分の民族だけひいきしないで、偏りなく静かな心で歴史的証言をすることは可能だと思うか>と手紙で問いかけた主人公への返信だ。
古今東西の戦い全てを視野においた、多和田氏の心の奥底からのメッセージのように思えたのは、終戦記念日に小説を再読したからかもしれない。この一文の重みが私の心にずっしりと錨を下した。
様々な文化的背景を持つ人々との交流の中で、個々の「民族」「歴史」に意識が広がっていくのを私も実感したことがある。国籍や宗教の異なる人と人がストレートに交流する場に時折現れる衝撃的な感覚。小説の主人公が楢山節考の残忍や大日本帝国の罪過に揺さぶられる場面がリアルに感じられた。
一方、ベッカー、ロザリンデ、アリョーナの問題は普遍的に誰もが経験する可能性のあること。魔女狩りのターゲットにされたり、家族関係のトラウマに苛まれたり、恋人に傷つけられたり…。
これら二種の問題を解決するのは、最後にアリョーナが無意識に自己防衛したと思われる「技」以外にないのかもしれない。
「太極拳は音楽であり、武術でもありますが、それだけではありません。楽器がなくても敵がいなくても、この姿勢は頭痛や胃炎に効くし、不安を解消するとも言われています。つまり単に自分の健康のために身体を動かしていると考えてもいいのです」
は、連載181でチェン先生が語る言葉。
「白鶴亮翅」。タイトル名がマジックワードのように心に響く。
小説を再読し終えてからも、多和田ワールドの中で漂っていたくて、日々の挿絵をパラパラ見返しては、ゲスト出演者、石川達三、三島由紀夫、クロード・レヴィ=ストロース、金鳥のニワトリ、杜甫、川端康成、谷崎潤一郎、「魔笛」のパパゲーナとパパゲーノの名を映画のエンディングクレジットを見るように振り返り、空き巣の手口、映画「楢山節考」、グリム童話、シェイクスピア「ハムレット」、推理ドラマ、ドストエフスキー「カラマーゾフ」の大審問官などなど数々のエピソードを思い起こして、とりとめないおしゃべりをした後で感じる満足感に浸っている。と、「おいおい、忘れてへんか?」とパナソニックのCDプレイヤーの声も聞こえてくる。
ミサが翻訳するクライスト「ロカルノの女乞食」は、翻訳過程を見学させてもらうのが楽しかった。私はクライストの名も知らず、作中作かと思っていたら違った。ハインリヒ・フォン・クライスト(Heinrich von Kleist 1777-1811)はドイツのジャーナリスト、戯曲・小説家だとwikipediaで教わった。
良い連載小説に巡り会えたことに心からの感謝!
<8月26日追記>
今朝の朝日新聞に、<「白鶴亮翅」連載を終えて>という多和田葉子氏のコラムが掲載された。
「罪と罰」に出てくる金貸しアリョーナ・イワーノヴナは「老婆」だと書いてあるが、数年前に読み返してみると六十歳前後と知って驚いた。六十歳という若さで老婆として消されてしまうのではたまらない。そこでこのアリョーナさんにわたしの小説に登場してもらい、ロージャ・ラスコーリニコフに殺されないように太極拳を習ってもらった。
アリョーナ・イワーノヴナはドストエフスキー「罪と罰」の老婆の名だった!ラスコーリニコフの名はしっかり覚えていたが、老婆の名はすっかり忘れていた。連載135で、いつもはファーストネームを使うチェン先生がフルネームでアリョーナの注意を喚起するシーンがあるが、読者に「罪と罰」を意識させるための方策だったのだ。そんな大事なヒントを見逃すとは全く迂闊だった。
この多和田氏のコラムを読んだ後で再び切抜を取り出した。そしてアリョーナの登場箇所をパラパラ拾い読みすると、ミサに自己紹介し合う時に「生まれはペータースブルク」と言う。「罪と罰」の舞台ペテルブルグも言及されていることにも気づかされた。
「白鶴亮翅」のロージャに「罪と罰」のラスコーリニコフの面影があることは気づいていたのだが、「罪と罰」のラスコーリニコフのファーストネームの略称もロージャだとは知らなかった。「罪と罰」(米川正夫訳)の母からの長い手紙の書き出し「なつかしいわたしのロージャよ」を見てビックリした。
さらに老婆は六十歳前後と書かれているのも確かめたくて、「罪と罰」で老婆アリョーナ・イヴァーノヴナを探すと、「意地悪そうな鋭い目」「小さいとがった鼻」をした<小柄なかさかさした六十恰好の老婆で頭には何も被っていなかった>と描写されている。「罪と罰」を読んだ20代の時には<六十恰好の老婆>に全く違和感を覚えることがなかったが、今では確かに多和田氏の驚きに共感する。
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山口謠司「てんまる」に、ミステリー級の誤り。
http://lazygarden.exblog.jp/241552604/
2022-08-11T16:00:00+09:00
2022-08-13T09:55:34+09:00
2022-08-11T16:00:09+09:00
lazygardener
本
PHP新書の山口謠司著「てんまる」に、ミステリー級の誤りを見つけた。
第4章 現代文学の「てんまる」の「アレクサンダとぜんまいねずみ」の項、165ページ。まさか!と我が目を疑うような記述がみられる。
小学校2年生の教科書にも採用されている、レオ・レオニ作「アレクサンダとぜんまいねずみ」の谷川俊太郎訳と原文が引用されている。
「月がまんまるの時、」 とかげは いった。
「むらさきの 小石をもって おいで。」
"When the moon is round," said the lizard, "bring me a purple pebble."
その項の最終段落に、衝撃の文章はある。
それにしても、「『月がまんまるの時、』とかげは いった。」という文章を、「『月がまんまるの時、』と、かげは いった。」となぜ書かなかったのだろうとも思うのです。
きちんと筋を通って絵本を読み進めて行けば、「かげ」が言った言葉であろうことは、疑いの余地もないのですが、文章だけ切り取ると、「とかげ」が言ったようにも思えてきてしまうのです。
「とかげ」が言ったようにも、ではなく、「とかげ」が言ったのです!と、山口氏に大きな声で言いたい。
谷川氏がこの一文を目にしたら、
「絵本を開く時、」 タニシュンは いった。
「子供の心を もっておいで。」
と、茶目っ気たっぷりに山口氏に応えるような気がする。
「それにしても、」と私も山口氏の言葉を繰り返したくなる。
それにしても、PHP新書の編集者の目もくぐり抜けて、この一文が掲載されたことが、本当に不思議で仕方ない。
これぞ、「真夏のミステリー」。としか、言いようがない。
山口氏はWikipediaによるとケンブリッジ大学大学東洋学部兼任研究員の経歴もある中国文献学者。
絵本の「大人の読み方」を披露されたのだろうが、Leo Lionniファンならば、「絵本の愉しみを損ねないで!」と、そしりの声をあげたくなる。
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七夕の空模様
http://lazygarden.exblog.jp/241522818/
2022-07-07T15:48:00+09:00
2022-07-07T22:42:10+09:00
2022-07-07T15:48:06+09:00
lazygardener
暦
七夕の天気が気がかりなのは毎年のこと。そわそわしながら天気予報をチェックする。
先週の週間予報で雨模様を確信して、赤人の「この夕べ降りつる雨は彦星の とわたる舟の櫂の雫か」を題材にカリグラフィーの練習をしていた。ポインテッドアンシャル書体の楕円に「彦星の櫂の雫」を心に描きながら…。
ところが、一昨日には台風4号が消滅して太陽マークに塗り替わった。
「この夕べ降りつる雨」を仕上げて飾ろうと思っていたのを諦めて、七夕飾りを変更して、むらかみひとみ「まっくらなよるとぼくのムー」のポストカードと、牽牛と織女に見立てた花を窓辺に並べた。七夕の夜は挿絵の月より、ふっくらした半月だが、夜空を散歩するポロンとムーの視点を借りて、わくわくしながら七夕の夜を楽しもうと思う。
とはいえ、カリグラフィーの練習もして書の上達を星に願わなければ… と思い立って、練習素材を拾遺和歌集の清原元輔の歌に変更して書いてみた。
天の川 あふぎの風に 霧はれて 空すみわたる かささぎの橋
台風一過の七夕の夜空にピッタリの句だと思う。トレーシングペーパーに書いて、笹の代役を務めるワイルドオーツを生けた黒い花器に貼り付けたり、天の川に見立てたドライフラワーアレンジメントに添えたりした。
国立天文台のページで、今夜のベガとアルタイルの配置を確かめる。8時頃、東の空に夏の大三角、見えることを願って!
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アースデイ
http://lazygarden.exblog.jp/241426757/
2022-04-19T08:22:00+09:00
2022-04-23T17:48:54+09:00
2022-04-19T12:50:19+09:00
lazygardener
カリグラフィー
国連が Mother Earth と名付けるように、地球は確かにあらゆる生物の母体に違いない。が、絵本" My Friend Earth "(Patricia MacLachlan 文・ Francesca Sanna 絵)は、地球を「友」と認識する。母や女神のようなイメージではなく、野生児のように逞しく溌剌とした元気な子。冬のうたた寝から目覚めて鳥や人が奏でる春の音を聴き、小さな命を見つめる。大きなアルバトゥロスの背にのって海上を飛び、土の中にも目を向ける。ジャングル、サバンナ、ツンドラ、海の、あらゆる動物を見守る。雨を降らせ小川から山、大地、河、海へと流す。時には度が過ぎて洪水や嵐を起こすこともある。秋には樹々の葉を色づかせ、冬には雪を降らせて動物の巣穴を覆って眠りを見守る。待っている...暖かな春が再び訪れるのを...で季節が一巡。最初の頁へと続いていく。
時に乱暴な時もあるけど、いつも優しく生き物を見守る " My Friend Earth " は素敵な子。そんな友を心から大切に思って、友と共に地球のあらゆる生物に目を向けて見守ろうという気持ちが沸き起こってくるような絵本。小さな種を蒔いて育てる、ゴミを拾うなど環境を守る小さな行動をする時、友を傍らに感じるに違いない。
この絵本の表紙はエンボス加工されていて、ページをめくれば、ところどころにフラップや切り抜き穴、背景が重なって見える曲線の切取など楽しいしかけがあって、立体感や躍動感にあふれている。
地球上の全ての子ども(大人も)の友として愛される絵本になるだろうこの絵本、今は My Friend Earth は she や her など女性代名詞で語られている。が、版を重ねゆく時にはジェンダーを考慮して、3人称単数のtheyなどに改訂される日が来るかもしれないと予感してる。
宇宙が生まれて138億年。地球が生まれて46億年。膨大な時間を経てヒトが地球に生まれた。百獣の王ライオンをも追いやって我が物顔で地球に居場所を得てきたヒト。母なる地球に甘えることをやめ、地球を友として、日々、地球の環境問題に目を向けようと、この絵本を手にして思った。
さて、次回のカリグラフィーレッスンの日は Earth Day 。というわけで Earth Day に因んだ語を書いてみようと試みた。earthとheartのスペルに同じ文字が使われていることを意識して特別な意味合いを感じ取るとき「はじめの一歩」が始まる...というニュアンスの素敵な言葉を見つけて書きたくなった。ロンバルディック体をライン化した文字は河南美和子『カリグレイスコープ 文字の万華鏡』でパターン集として紹介されていたアレンジ書体を、真似て書いたもの。ラインの交差した空間のところどころに色を塗るアイデアは先生から教わった。字のひずみに地球の悲鳴を聴く思いをしながら書き終えて、やっぱり最後はガッツポーズでなくムンクの叫びポーズ...。
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イースター飾り
http://lazygarden.exblog.jp/241419498/
2022-04-11T18:25:00+09:00
2022-04-12T21:52:18+09:00
2022-04-11T23:16:01+09:00
lazygardener
暮らし
食卓には卵の殻をテーブルフラワー代わりに。傍らには絵本 " THE EGG" の絵にインスパイアされて作ったビオラの押し花を添えた飾りを並べ置く。
絵本 THE EGG は、そのタイトルに偽りなく、卵について語り尽くす。卵の神秘、完璧な造形。卵の構造。大きさ比較。いろんな鳥の卵だけでなく昆虫やカエル、トカゲ、ウミガメ、魚の卵まで網羅する。芸術や宗教、神話のモチーフとしての卵、古代の信仰とイースター。ロシアの皇帝がファベルジュに作らせた宝石のような卵。民間の飾り卵。そしてお話の数々にも登場する金の卵まで。作者は Britta Teckentrup 。
カリグラフィーのロンバルディック書体の練習をしていて、書体の基盤となる楕円を書いていると卵が思い浮かんだ。そして卵からイースターを連想。そんな時に出会った Tiger, Tiger, Burning Bright! でイースターという題の詩を見つけて書きたくなった。
絵本 "Tiger, Tiger, Burning Bright! "は An Animal Poem for Each Day of the Year という副題のとおり、1月1日から12月31日まで動物を題材とした詩が並ぶ。タイトルにもなっている William Blake の Tiger を含めて、いろんな詩人による詩が選ばれている。選者は Fiona Waters。絵は Britta Teckentrup。"THE EGG" の作者でもある。 Britta Teckentrup のページを訪れて膨大な作品群や受賞歴をチェックしたら、その多才さに誰もが圧倒されずにいられないだろう。
"Tiger, Tiger, Burning Bright! " は2020年9月に出版された本なので翌2021年のイースターに合わせて4月4日にイースターの詩があてがわれたようだ。
The air is like a butterfly
With frail blue wings.
The happy earth looks at the sky
And sings.
Joyce Kilmer
我が家では、ちょうど胡蝶蘭の蕾が膨らみを増して花が咲き始める頃で、蝶の登場する詩を書き写すのが嬉しかった。とはいえ、いつもながら練習は、おざなり。字がうまく書けていないことを承知しながらも、「ま、いいか」で寝室の入口に飾った。
リビングの片隅には、以前に書いたイースターカードも出してきて厚顔無恥な飾りを重ねる。
キッチンの窓辺には年がら年中の卵飾り。月の膨らみゆくのを見守りながらイースターの訪れを心待ちにする。
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桜の季節に「秘密の花園」を訪れる
http://lazygarden.exblog.jp/241407005/
2022-03-30T18:40:00+09:00
2022-03-31T13:12:47+09:00
2022-03-30T18:40:15+09:00
lazygardener
本
桜の花の精に操られて心が全て花に注がれる季節。
日の長さも手伝って花散歩が長くなった後で大慌てで日常に戻る日々が続く。
電車に乗っている時も窓から見える花を求めて、ほとんど読書もできない。
というわけで、このところAudio Book頼り。F. H. Burnettの" the="" secret="" garden"を聴いている。殊に19章でmaryが告げる"it="" has="" come,="" spring!="" "“things="" are="" crowding="" up="" out="" of="" earth”という言葉に今の季節を重ね合わせる。20章のcolinの興奮にdickonの神聖。心地よい音楽を聴くように物語の後半を何度もリピート再生して秘密の花園に入り込む。中学で習った無機質な”spring="" come.”を心の底から湧き上がる悦びの言葉に替える魔法の季節の到来を歓迎しながら...。<="" div="">
桜の花の精に操られるかのように、心が全て花に注がれる季節がやって来た。日の長さも手伝って、花散歩や、寛ぎ半分の庭仕事で時間を忘れて大慌てで日常に戻る日々が続く。電車に乗っている時も窓から見える花を求めて、ほとんど読書もできない。
というわけで、このところはAudio Book頼り。F. H. Burnett"The Secret Garden"を聴いている。殊に19章でMaryが告げる"It has come, the Spring! "“Things are crowding up out of the earth”という言葉を耳にすると、まさしく今の季節が重ね合わさって心躍る。20章のColinの興奮に同調し、Dickonの不思議な魅力に神聖さを見、心地よい音楽を聴くように物語の後半を何度もリピート再生して秘密の花園に入り浸る。教科書の無機質な”Spring has come.”を、心の底から湧き上がる悦びの言葉に替える、魔法の季節の到来を歓迎しながら...。
理解しにくいヨーク方言の響きや、Dickonが畏まって歌う讃美歌の美しいメロディーまで楽しめるのはKaren Savageの素晴らしい朗読のお陰。紙の本を読んでいては気づきようのない原作の魅力を教わる。讃美歌"Praise God from whom all blessings flow”は検索して聴くほどに魅せられた。
ムーアの情景と共に、「嵐が丘」「ジェーンエア」にも共通する、死者や遠く離れた人の声を聴く場面は「秘密の花園」にも表れる。万葉時代に遡る日本人の言霊信仰にも通じるような気がして、時空を超えたヨークの物語にストンと入り込む。この時期に「秘密の花園」に導いてくれたのも、もしかしたら、桜の精かもしれない。
ブログの投稿画面で知ったが、3月27日は桜の日だそうだ。「3×9(さくら)=27」の語呂合わせと、七十二候の一つ「桜始開」が重なる時期であることから制定されたと説明されている。
まさしく3月27日、雨上がりの暖かな陽気に満ちた日曜日に、青空のもと、今年初めての桜のお花見をしたのだと知って、嬉しくなった。
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絵本 war (José Jorge Letria 文 / André Letria 絵)
http://lazygarden.exblog.jp/241394000/
2022-03-17T08:02:00+09:00
2022-03-28T08:06:38+09:00
2022-03-17T12:52:10+09:00
lazygardener
本
戦争の普遍的なイメージが言葉少なく静かに提示される。その静かなメッセージは、徐々に心に染みわたって戦争の恐怖を目の当たりにして胸を詰まらせる。
José Jorge Letriaの文とAndré Letria の絵による絵本。原書"A Guerra" (2018)はポルトガル語。"WAR"(2019)はElisa Amadoによる英訳版。José はAndréの父。重苦しい題材を的確に表現した秀逸な絵本。
音(言葉)もなく不気味に地を這い進む蛇のような無数の黒い影。こっそりと足早に訪れ、憎悪や野心や恐怖を積み上げる。耳や目、むろん心もなく、ただただ破壊して沈黙する。
原書"A Guerra"の出版社Pato LógicoのページではAndré Letriaの描画風景を見ることもできる。
そして、“A Guerra” de José Jorge Letria e André Letriaでは、絵本を丸ごと堪能できる。
ビデオで絵本を観るのは、自分で本を開きながら文字を読むのとは違った感覚を味わえる。ポルトガル語はわからないが、最後のページで、音楽が途切れて、A guerra è o silèncio. と打ち出されると、心が揺さぶられる。War is silence...
ウクライナなど世界各地の紛争地で打ちひしがれている人々を思いながら、ポインテッドペンで本文を書き写した。行頭に並ぶ17個のWarが重い。ブラックレターで書いたら、もっと不気味な黒い影を思わせて似つかわしいかも...。
願わくは世界の平和をと、心の内で密やかに思うだけでは何の解決にもならないが...。
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